島を歩く 日本を見る
美しい多島景観を構成する忽那(くつな)諸島は、愛媛県の松山沖に位置する。その中心地で最大面積を有する中島は、国内有数のかんきつ産地で「ミカンの島」と呼ばれる。イヨカンや温州ミカン、紅まどんななど、多品種のかんきつが栽培され、収穫時は島中がかんきつ色に染まる。春から初夏にかけては、満開の花が甘い香りを漂わせて旅人を出迎えてくれる。
中島と呼ばれるようになったのは室町時代と伝わり、奈良時代の文献には法隆寺領の荘園「骨奈嶋」と記されている。平安時代に牛馬の放牧場が置かれ、忽那諸島の開発の祖と伝わる藤原親賢(ちかかた)が「忽那氏(くつなうじ)」と称して統治し、島名を「忽那嶋」に改めたとされる。
その後、豊臣秀吉の四国平定までは、中島を本拠地に忽那水軍が勢力を振るった。泰ノ山には、文治5(1189)年に忽那兼平が築城した城跡が残る。
忽那水軍の隆盛とともに海運業も興隆し、北東部の粟井地区にある桑名神社には、江戸時代に回船問屋や船頭などが奉納した船絵馬や珍しい船形の賽銭(さいせん)箱があり、海運業との深いつながりがうかがえる。
島でかんきつ栽培が始まったのは明治期で、一大産業となったのは戦後だという。山の頂上付近まで開墾が進み、自給用の田畑も次々とかんきつ畑へと姿を変えていった。収穫したかんきつは、通称「ミカン船」に載せ、近畿や宇和島などへ売りに出たそうだ。
昭和50年代になると、山の斜面に運搬用モノレールが敷設され、農道が開通し、かんきつ生産が一気に合理化した。「中島みかん」はブランド化し、島は「ミカン景気」に沸いた。 熊田地区の正賢寺境内にある歴史民俗資料館の「懐古館」は、島内の農具や漁具、民俗品など約3千点が所狭しと並ぶ。同館を管理する住職は「戦前は島で稲作も行われていたが、昭和47年頃に熊田を最後に終わり、コメ農家もミカン農家に変わった。嫁入り道具のたんすをミカン箱にするほど収穫量が増えて、海沿いに新しい家が次々と建っていった」と当時を振り返る。
現在、かんきつの生産量は人口減少や輸入品の増加などでピーク時より減少している。一方で、NPO法人やグループ団体などがかんきつの収穫体験や、休耕畑で栽培しているべにふうきの茶摘み体験、漁体験などを提供し、里山と海の資源を生かして島の活性化に取り組んでいる。
島を歩くと、陽光を浴びる鈴なりのかんきつが至る所で目に映る。島の暮らしを支えてきた誇りを示すかのように、宝石さながらの存在感を放っていた。
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■アクセス 松山市の三津浜港や高浜港からフェリーや高速船で。
■プロフィル
小林希(こばやし・のぞみ) 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は120島を巡った。
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