8日午前、「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが内外に示された。宣明の儀を中心儀式とする立皇嗣の礼は平成3年の「立太子の礼」を踏襲。近世以前、何度も行われた同様の儀式は天皇の後継指名の場だったとされるが、歴史をひもとくと、順当に皇太子を経た天皇ばかりではない。古代には一度立てた皇太子を廃する例が相次いだほか、後継指名できる上皇や天皇が戦乱で不在となり、異例の即位となった例も。日本史に伝わる立太子をめぐるドラマを追った。(橋本昌宗)
■「廃太子」相次いだ古代
現代の日本では、天皇の長男が皇太子となるなど、皇位継承順位は明確に定められている。
しかし、明治22(1889)年に皇室典範が制定されるまで、皇位継承に関する規定は存在しなかった。長男だからといって必ず皇太子になれるわけではなく、母親の身分に加え、譲位した上皇や時の幕府、有力者の意向も複雑にからんで決定された。
皇太子になったからといって安泰とはいえない時期もあった。奈良時代末期から平安時代にかけて、皇太子の身分を剥奪する「廃太子」が相次いでいる。
平安時代初期に編纂(へんさん)された史書「続日本紀」によると、奈良時代末期の光仁(こうにん)天皇は、宝亀元(770)年、前代の称徳天皇の崩御に伴い、天皇の遺言で、62歳で皇太子となった。
2カ月後に天皇となったが、3年には皇太子としていた子の他戸(おさべ)親王の身分を剥奪して庶民に落とした。続日本紀によれば、親王の母が天皇を何度も呪ったことが理由とされる。
代わって皇太子に立てられたのは、平安京に遷都することで知られる後の桓武天皇だった。
しかし、平安時代になっても皇太子の地位は不安定のまま。宮内庁書陵部が編纂した「皇室制度史料」によれば、桓武天皇から嵯峨、仁明(にんみょう)と相次いで一度立てた皇太子を廃している。
一方、文徳天皇の後、ほとんど廃太子はなくなる。皇太子を立てる儀式も平安時代後期ごろには確立したとされ、中断や修正を経ながら受け継がれていく。
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