小学校の同級生が夢の舞台へ―。米国戦に先発した田中将大投手(32)=楽天=と「2番・遊撃」で出場した坂本勇人内野手(32)=巨人=は、兵庫・伊丹市の昆陽里(こやのさと)小、松崎中の同級生。小学1年から6年間、少年野球チーム「昆陽里タイガース」でプレーした。当時を知る人々が2人の原点を明かした。(取材構成・谷川直之)
田中将と坂本は21年前もチームメートだった。兵庫・伊丹市の少年野球チーム「昆陽里タイガース」で同時期に野球を始めた2人の侍。坂本のいとこで二塁を守った同級生、松村昌哉さんが当時を思い返す。
「勇人はセンスがあって何でもできました。田中はとにかく真面目で練習熱心。体もがっしりとしていて、打球も投球もパワーがありました」
坂本は5年まで遊撃手。6年時は投手兼主将となり、捕手・田中と組んで県大会準優勝を果たした。学校でも6年2組でクラスメート。行動を共にすることは少なかったが、野球が大好きなところは共通していた。
小学校の卒業アルバムには質問コーナーがある。「もしも魔法が使えたら」の欄には田中が「世界を平和にする」、坂本は「孫悟空になる」とほほえましい回答をしているが、「将来の夢」の質問にはそろって「プロ野球選手になる」と力強く記し、卒業作文も野球の思い出を紙いっぱいに書き込んだ。
野球の時間は常に互いを意識した。打撃練習は左翼後方にある校舎に向かって打つ本塁打競争になった。当時の監督で現在は理事長を務める山崎三孝さん(76)は「1人10球ずつ。坂本は両打ちだったから、左右で5球ずつ。右打ちの田中に校舎へ当てた本数で負けるのが嫌で、坂本は右打ちにしたんちゃうかな」と懐かしむ。一方で、田中は走り込みが苦手だった。グラウンドの両端を往復する約500メートルの競走では、田中は後方でついていくのに必死だったという。
卒業後は田中が宝塚ボーイズ、坂本が伊丹シニアへと進み、野球では別々の道へ進んだ。それぞれの道で日本を代表する選手になって日の丸を背負う東京五輪。幼少期からのライバルは互いを高め合い、最高の相棒としてチームを支えている。
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